こんにちは。
今週は武田百合子さんのエッセイ「絵葉書のように」を読みました。
編者は武田百合子さんの娘さんである武田花さん。
武田百合子さんが亡くなって、もう30年だそうです。
このエッセイ集は、6年前に発行された単行本未収録エッセイ集
「あの頃」の中から54篇を選んで文庫化したもの。
武田百合子さんのエッセイは大好きなのですが、
亡くなられているので、新しいエッセイを読む機会がないのが残念。
単行本を買わない自分にとって、こちらの文庫本は
久々に読んだ武田百合子さんの新しいエッセイでした。
やっぱり、武田百合子さんのエッセイは味わい深い
夫である小説家の武田泰淳氏が亡くなる少し前や
亡くなってからのことを書かれているものが多いのだが、
淡々とした文章でありながら、その悲しみ、喪失感に
胸をぎゅーっと締め付けられました。
「美しいもの」を簡単に「美しい」と書かずに
「どういう風かくわしく書く」
「心がどういう風かくわしく書く」
「なるたけ、くわしく書く」
のだそう。
そうして書かれたものを読んでいる私たちの前に
美しいものが立ち上がってくるのがすごいです。
ひと昔前の、東京赤坂が変わっていく様子などについての描写も興味深い。
「地形だけは変わらないから、雪が降ったりすればいきなり昔の風景になりますよ」
と言った人のことを書いた後の文章。
ここニ、三年前からは、坂や路地などつぶしておしならして
地形まで変えてしまう怖いような大開発が東京でははじまった。
麻布谷町の民家が立ち退いて、アークヒルズが出来上がっていくときは、
一村を沈めてダムを作っているような乱暴な感じがした。
近くに住んでいたので、その進歩した土木建築技術を、呆然と見ていた。
出来上がったときいて、怖わごわ行ってみたら、
国籍不明の一画に変わっていた。
ホテルのガラス張りのレストランには、昼下がり、
若年中年高年の女たちが充満していた。
雪が降っても、夕立がきても、昔の風景がたちあらわれる
などということは、ここにはないだろう。
「拾い食い」のなかの
京都の老舗の食べもの屋 だという行商人が取り落とした
黒いがんものようなものを、つまみ上げ、しばらく見つめたあと、
いきなり開け放しの玄関から遠くに投げた時の表現も秀逸。
黒いものは、あ、あ、あ、と弧を描いて、門の外の草むらへ落ちて行く。
行商人が帰った後、急いで草むらに駆けていき、
それを拾ってすぐ噛んでみるのが可笑しい。
そして、娘の花ちゃんもすぐうしろについてきて
ひと口齧ってまた百合子さんに渡すのが可笑しい。
動物園のシロサイがゆっくり方向転換する表現も素晴らしいのだが
それは書かずにおきます。
なんでしょうねぇ。武田百合子さん。
ほんとうに好きです。
それではみなさま、よい週末をお過ごしください。
